各段階で適切な選択がなされ、切れ目なく発展がつながってきた——その輝きは、どのようにして灯されたのか。

今日、台湾の半導体産業は世界中から注目を集めているが、その成功は決して容易に得られたものではない。ゼロからのスタートだったこの産業は、国家の産業政策の枠組みのもとでアメリカ企業との交渉を主導し、正式な技術ライセンスを獲得。続いて、技術者を米国へ派遣して訓練を受けさせ、その技術を台湾へ持ち帰った。そして、工業技術研究院(工研院)での試験生産を経て、民間企業へと技術移転を行い、最終的に新たな産業チェーンを築き上げた。
今や、台湾の半導体産業はまるで中央山脈のような「国家を守る山々」としてそびえ立ち、静かに台湾を守りながら、世界の舞台でまばゆい光を放っている。
このような成果が得られたのは、初日から台湾がその根をしっかりと大地に張り巡らせ、やがて世界を揺るがすほどの巨大な産業の礎を築いてきたからにほかならない。
その過程には、幾度となく訪れた岐路で最善の判断を下した数多くのキーパーソンたちがいた。彼らの決断と行動は、今あらためて振り返るに値する。
そもそも、なぜ台湾の半導体産業はこれほどまでに成功を収めることができたのだろうか。
私は、その答えを三つの段階に分けて考えることができると思う。
台湾はそれぞれの段階で的確な選択を行い、各フェーズが無理なくつながる形で、産業の発展を連続的に実現してきたのである。
【第1段階:RCAからの技術導入】
第1段階は、米国のRCA(無線電機会社)からの技術導入である。これが、台湾の半導体技術が「ゼロからイチ」へと発展する起点となった。
1976年3月、海外の華僑学者である潘文淵(パン・ウェンユエン)氏の調整と計画のもと、専門家による評価が行われ、最終的にRCAが技術移転の相手先として選ばれた。
RCAは、250万米ドルの技術移転費用と100万米ドルのライセンス料を条件に、工業技術研究院(工研院)と10年間の技術移転契約を締結。単なる技術提供にとどまらず、台湾への人材育成支援にも協力した。
この段階において、台湾政府は先見の明と信頼を持ち、工業技術研究院(工研院)の電子技術諮問委員会(Technical Advisory Committee、以下TAC)に評価と意思決定を一任した。
そしてTACは、今日の視点から見ても非常に適切であったとされる三つの重要な判断を下し、台湾のIC(集積回路)産業の発展における礎を築いたのである。
第一の判断は、CMOSプロセスの採用であった。
1970年代当時、IC(集積回路)の発明からはまだ20年ほどしか経っておらず、PMOS、NMOS、バイポーラなど、それぞれに長所と短所を持つ複数の製造プロセスが各社で開発・実用化されていた。
TACは、将来の電子機器が「軽量・薄型・小型」で持ち運びしやすく、さらに省電力であることが重要になると見据え、CMOSを最適な選択肢と判断した。
ただし、安全策として、電子所(工研院電子部門)はNMOSおよびバイポーラプロセスの研修も人員に受けさせていた。
第二の決定は、IC技術の「ワンストップ」移転を選択したことである。
RCAが提供した技術ライセンスには、回路設計、マスクの作成、製造プロセス、設備メンテナンス、テスト、パッケージング、品質管理、工場運営、原価会計、生産スケジューリング、資材管理など、IC製造に関わる全工程が含まれていた。
当時、CMOSプロセスにおいて世界的に評価が高かった企業は、米国のヒューズ(Hughes)とRCAの2社であり、幾度にも及ぶ交渉の末、最終的にRCAは全技術の移転に合意したのである。
1976年4月、台湾は第1陣として13名の技術者を米国に派遣し、RCAでの研修を受けさせた。
その中には、史欽泰(シー・チンタイ)、曾繁城(ツォン・ファンチョン)、曹興誠(ツァオ・シンチェン)、蔡明介(ツァイ・ミンチエ)、劉英達(リウ・インダー)、楊丁元(ヤン・ディンユエン)、章青駒(チャン・チンチュー)などが含まれていた。
その後も継続的に研修派遣が行われ、最終的には40名以上が米国での訓練を受けることとなった。
こうした「技術の経典を求める使者」たちは、後に台湾のIC産業を代表する著名な存在となっていった。
RCAは台湾政府からライセンス料を受け取った以上、その責任を果たすべく、持てる技術を惜しみなく台湾側に提供した。
当時、派遣された研修生たちは全員で共同生活を送り、日中は工場で熱心に学び、夜には互いに疑問点を議論し合うという、まさに集中研修の環境にあった。
RCAの幹部たちもすぐに気づいた。台湾人研修生たちは、並外れた学習能力と、強い意欲を持っていたことに。
例えば、RCAは各種の技術資料や文書を極めて整理された形で公開しており、閲覧者が名前を記入するだけで、自由にコピーして持ち帰ることができた。
多くの研修生が台湾に戻る際、スーツケースの中に資料をぎっしりと詰めて帰国したのである。
TACによる三つ目の重要な判断は、RCAからの技術を取得した後、台湾に戻って工業技術研究院(工研院)内に「量産」を見据えたモデル工場を建設するというものであった。
当時、政府はコスト削減のために単なる試験的な小規模施設を設けるのではなく、直径3インチのウエハーを月間1万枚生産できる規模で、商業化を視野に入れた実証施設を設計した。
このような大規模な設備を初期段階から導入したのは、大量生産に伴う技術的課題を早期に発見・修正できるようにするためである。
その結果、工研院は量産開始からわずか3カ月で、歩留まり(良品率)において米国RCAを上回る成果を達成し、周囲の期待を大きく超える結果となった。
TACが下したこれら三つの決定により、台湾はRCAの全技術を完全な形で移転・再現することが可能となり、それを台湾国内で確実に定着させることに成功した。
単なる表面的な模倣や中途半端な技術導入ではなく、当時最先端だったアメリカのIC技術を、極めて実践的かつ体系的に持ち帰ったのである。
今日の国際的な産業競争の状況を鑑みれば、このような包括的な技術ライセンスの取得は、もはや二度と起こりえないと断言できる。
当時、台湾政府は技術導入のために総額350万米ドル(約1億4,000万台湾元)を投じたが、その結果、現在では約5兆台湾元規模の半導体産業を築き上げた。まさに、それだけの価値があったと言えるだろう。
【第2段階:技術の移転と聯華電子(UMC)の誕生】
RCAから導入した技術は、工業技術研究院(工研院)のモデル工場で数年間の試行を経た後、民間企業への技術移転へと進んだ。これが、第2段階の始まりである。
この段階で最初に技術移転を受けたのが、1980年に設立された聯華電子(ユナイテッド・マイクロエレクトロニクス、以下UMC)であった。
当時、工研院電子所は技術移転の確実な成功を図るため、UMCに対してRCAがかつて電子所に課した条件と同様、「完全コピー(copy exactly)」の原則に従うよう求めた。
しかし1980年中頃にUMCが工場建設を開始した時点では、アメリカや日本ではすでに4インチ・ウエハーの量産が始まっていた。
このため、UMCは3インチ・ウエハーという旧仕様を採用せず、より先進的な4インチを選択。設備については、想定外のトラブルを避けるため、可能な限り電子所と同じメーカーの機材を使用する方針を取った。
この判断により、UMCの生産能力は大幅に向上し、製造技術も7ミクロンから3.5ミクロン、さらに2ミクロンへと飛躍的に進化した。
同時に、製造コストも大きく削減されることとなった。
1983年に工場が本格的な量産体制に入ると、翌1984年にはアメリカ市場で家庭用電話機向けICチップの需要が急増し、UMCはこの波に乗って収益を上げ始めた。
また、UMCには工研院から派生した重要な部門として「製品設計部門」が設置された。
この部門の存在は、後にUMCから数多くのIC設計会社がスピンオフし、台湾がIC設計の一大拠点へと成長する上での起点となった。
しかし当初、工研院電子所はUMCに対して製造技術のみを移転する方針であり、UMCが製造する製品については、引き続き電子所およびRCAからのライセンス取得が必要とされていた。
これに対して、UMCの経営陣は「製品設計の能力を持たなければ、常に他者の顔色をうかがわなければならない」と危機感を抱き、当時の総経理(CEO)であった曹興誠(ツァオ・シンチェン)氏は、工研院に在籍していた蔡明介(ツァイ・ミンチエ)氏を説得し、UMCに招き入れた。
この決定により、UMCと電子所との関係は一時的に緊張をはらんだものとなった。
しかし、今日に至ってみれば、これは極めて正しい判断であったと言える。
なぜなら、UMCは後に多くのIC設計人材を育成する母体となり、もし当時、IC設計機能が電子所の中に閉じ込められたままだったならば、業界の広がりは限定的なものにとどまっていた可能性が高いからである。
現在、台湾のIC設計業界は世界第2位の地位を確立しており、世界のIC設計企業トップ10のうち、台湾企業が4社を占めている。その4社とは、聯發科技(メディアテック)、聯詠科技(ノヴァテック)、瑞昱半導体(リアルテック)、および奇景光電(ヒムスビジョン)であり、うち前者2社はUMCから分離・独立した企業である。
さらに、前述の2社にとどまらず、いわゆる「聯」の字を社名に含む、UMC出身者によって設立された企業群も数多く存在する。
たとえば、瑞昱(リアルテック)や普誠(プロモス)の創業者もUMC出身であり、また、智原科技(ファブレス・グローバル)、原相科技(イメージ・センサーテック)、盛群(ホルテック)、聯陽(アリオン)、聯傑(リンジェット)、矽統(シリコン・モーション)なども、主要な幹部がUMCの流れを汲んでいる。
【第3段階:TSMCの設立と新たなビジネスモデルの誕生】
第3段階に入った1984年、工研院電子所は超大型集積回路(VLSI:Very Large Scale Integration)の開発プロジェクトを開始し、その流れの中で1987年に台湾積体電路製造公司(TSMC)が設立された。
これにより、台湾の半導体産業は真に「ゼロからイチ」を超え、国際社会における確固たる地位を築くこととなった。
TSMCの設立は、その規模とレベルの両面において、先行するUMCをはるかに上回るものであり、それは台湾産業の基盤がすでに成熟しつつあったこととも密接に関係している。
工研院の院長であった張忠謀(チャン・チュンモウ)氏が自ら陣頭指揮を執り、TSMCの初代董事長(会長)に就任。さらに、工研院のモデル工場の責任者であった曾繁城(ツォン・ファンチョン)氏をはじめ、100名を超える技術者がTSMCに移籍した。
また、工研院が保有していた6インチのVLSI工場も評価額付きでTSMCへ譲渡された。
加えて、オランダのフィリップス社がTSMCに27.5%出資し、同社の国際的な特許ネットワークの傘の下に入ることで、TSMCは国際競争力の源泉を得ることができた。
TSMCは、専業のファウンドリ(純粋な半導体製造受託)として設立され、それにより台湾のIC産業における垂直分業の構造が一層明確化された。
IC産業全体も、設計・製造・テストおよびパッケージングという各工程が独立した専門分野として分化し、それぞれが国際市場で躍進するための空間を見出すこととなった。
2021年時点で、台湾のファウンドリ産業は世界の市場シェアの64%を占めており、そのうちTSMC単独で53%を占めていた。
特に7ナノメートル以下の先端プロセスにおいては、ほぼTSMCが市場を独占する形となっている。
TSMCが設立されたその年、華新麗華グループは楊丁元(ヤン・ディンユエン)氏および章青駒(チャン・チンチュー)氏らを迎え入れ、華邦電子(ウィンボンド)を創業した。
翌年の1988年には、呉敏求(ウー・ミンチウ)氏が米国から多数の技術者とその家族を引き連れて帰国し、旺宏電子(マクロニクス)を設立。
台湾の半導体業界では起業熱が高まり、国内の主要大学も次々と電子工学、電機工学、材料科学といった半導体関連学科を新設し、豊富な人材供給体制を構築していった。
また、各ファウンドリやIC設計会社は海外からも専門家を積極的に招聘し、台湾のIC産業の総合的な実力はさらに大きく前進することとなった。
これまでに述べた三つの段階を経て、台湾の半導体産業は「ゼロからイチ」へと歩みを進め、そして「イチから百」へと成長を遂げ、世界が驚嘆する台湾半導体の奇跡を生み出した。
この成功の軌跡には、政策を導いた政府関係者から、現場で汗を流した民間企業の関係者に至るまで、数え切れないほどの無私の努力と貢献があった。
その中には名もなき英雄たちの存在があり、彼らこそが「シリコン・アイランド」と呼ばれる台湾を、まばゆい輝きを放つ存在へと押し上げた真の立役者なのである。



