すべての人に張忠謀の影が宿っている——勝つために、半年前から動く

2023年3月末、TSMC(台積電)は「海外業務オフィス(Overseas Operations Office, OOO)」を新設し、運営組織担当のシニアバイスプレジデント秦永沛(ワイピー・チン)、事業開発担当の張曉強(ケビン・ジャン)、そしてアリゾナ州事業を担当するRick Cassidyの3名が責任者に任命された。さらに、王英郎(ワイエル・ワン)は米国工場のCEOに、廖永豪(ワイエイチ・リャオ)は日本子会社JASMのCEOに任命された。両者は新たな任務を担うと同時に、台湾の既存ファブの管理業務も継続している。
この人事異動は、TSMCがグローバル展開を強化し、海外拠点の運営効率を高めるために実施した重要な組織改革である。米国と日本に派遣された二人の幹部――王英郎と廖永豪――は、社内で最も優れた業務実績を持ち、昇進のスピードでも群を抜くプロフェッショナルマネージャーである。さらに重要なのは、彼らがTSMCの成功を支える「エンジニア主導の経営文化」の象徴的存在であるという点だ。
まずは王英郎について紹介したい。TSMCのベテラン社員の間では、彼にまつわる多くの逸話が語り継がれている。彼は社内で数々の最速昇進記録を打ち立て、最年少でマネージャー、部門長、副工場長、技術部長、そして工場長に就任した伝説的な存在である。また、台湾の「十大傑出青年」に選ばれ、国家発明賞を5回、さらに張忠謀会長賞も5回受賞している、TSMCの中でも特に高く評価されている人物だ。
これほど多くの記録を打ち立てたのは、彼がどんなことにも全力を尽くすからだ。TSMCの運動会で行われるリレー競技でさえ、その姿勢は変わらなかった。
TSMCでは毎年運動会が開催されており、その中で最もチームワークが求められる競技が「5000メートルリレー」である。各工場は25人の男性社員と25人の女性社員からなるチームを編成し、一人あたり100メートルを走って、合計5000メートルをつなぐ形式となっている。
あるベテラン幹部はこう振り返る。勝つために、どの工場もさまざまな準備をしていたという。彼の工場では特別にコーチを呼び、部署内で足の速い男女を選抜した。当時、男性社員の平均100メートル走タイムは約12秒、女性社員は13秒だった。トレーニングを積んだ結果、最終的なタイムは前年の優勝チームよりも3秒も速かった。
あまりにも良いタイムが出たため、誰もが「今年の優勝は自分たちだ」と信じて疑わなかった。しかし結果は予想外だった。優勝したのは王英郎が率いる工場のチームで、なんと2位に対して1〜2周もの差をつけての圧勝だった。この結果に皆が驚きを隠せなかった。
後になって、皆がその裏側を知ることになった。実は王英郎は、かなり前からこのリレーのために入念な準備をしていたのだ。大会の出場資格は「TSMCに半年以上勤務している社員」であったため、彼は半年前から台南の長栄高校の体育クラスと交渉し、クラス全体を自分の工場に採用していた。男子生徒は100メートルを11秒で走れ、女子も12秒台の実力を持っていたため、一般社員では到底敵わなかった。
ただの社内リレーにそこまで本気になる必要があるのか、製造やビジネスに直接関係ないのに――そう感じる人もいるかもしれない。しかし、たとえ社内競技であっても半年前から戦略を立てて臨む人物が、他の重要な仕事に手を抜くとは到底思えない。
実際、王英郎が率いる南科第14工場は、社内のさまざまな競技や評価指標において、常に上位の成績を収めていた。歩留まり改善、出荷実績、コスト削減(cost down)、生産サイクル短縮(cycle time)といった分野すべてにおいて優秀な結果を残していた。彼が採用した体育クラス出身の社員たちは、足が速いだけでなく、工場内での実務成績も非常に優れていた。これこそが、彼がTSMCで最も早く昇進した幹部となった理由の一つである。
王英郎は海外留学の経験こそないが、学歴は非常に優れている。清華大学で物理学を専攻し、中山大学で材料科学の修士号、そして交通大学で電子工学の博士号を取得している。1992年にTSMCに入社し、南科第14工場を率いて、この工場を世界最大規模のファウンドリーへと拡張した。その規模は一般的な工場の6〜7倍に及ぶ。2015年には技術開発担当の副総経理に昇進し、10ナノ、7ナノ、5ナノといった先端プロセス技術の研究開発を主導し、量産化にも成功した。
さらに、王英郎は全世界で283件の特許を保有しており、そのうち136件は米国で登録されたものである。TSMCが中芯国際(SMIC)との特許訴訟で勝訴した際には、彼の特許のうち4件が使用され、その中でも低温プロセス技術の特許は、中国からの侵害から台湾の半導体産業を守るうえで極めて重要な役割を果たした。
王英郎は、その圧倒的な業績により、TSMC社内で最も「強烈な存在」として知られてきた。また、彼には忠実に従う幹部の部隊も存在し、台南から新竹に異動した際には、300人以上のチームを率いて第12工場に移動し、TSMC史上前例のない「藩王」と称された。その圧倒的な影響力は注目を集める一方で、社内には異論の声もあった。現在、最も困難とされる米国工場の責任者に任命されたことは、経営陣からの高い期待の表れであり、彼の卓越したリーダーシップが海外でも再び発揮されることが望まれている。
あなたが夜10時に退勤するなら、エンジニアは11時まで帰れない。それで生活の質が保てるのか?
また、TSMCの創業2年目に入社した廖永豪も、社内で非常に優れた成績を持つオペレーション担当の副総経理である。彼が担当した台中の第15工場では、28ナノ、10ナノ、7ナノのプロセス技術を成功裏に量産化し、TSMCを世界で初めて7ナノの量産に成功した企業へと押し上げた。また、同工場では装置導入のスピードと生産能力の向上においても、TSMC内で最速記録を打ち立て、研究開発から製造への技術移転を一気に実現した。
かつて廖永豪が工場長を務めていた際、ある部門マネージャーがこう語ったことがあった。「私は毎晩10時まで働いており、それだけ会社に貢献しています」。しかし、廖はこう返した。「君が10時に退勤するなら、エンジニアは11時まで残らなきゃいけないよね?それでは生活の質が保てないじゃないか。他の人は8時に帰っているのに、君だけ10時というのは、むしろ効率に問題があるのでは?」この言葉にマネージャーは気まずそうな顔をしたが、それ以降、廖の現実主義的なマネジメントスタイルに深く納得するようになったという。
廖永豪が担当するTSMCの日本子会社JASMは、同社唯一の非全額出資による海外工場であり、その性質は極めて特殊である。彼はソニーやデンソーなど複数の日本企業と協力しながら運営を進める必要があり、台湾と日本の文化的な違いや調整の課題にも直面している。こうした環境においては、廖の穏やかで現実的なマネジメントスタイルが、JASMのリーダーとして最適だと評価されている。
王英郎や廖永豪の姿からは、TSMCが誇る独自の「エンジニア文化」が色濃く浮かび上がる。すべてのエンジニアが責任感を持ち、成果を追求すれば、最終的に大きな組織的パワーが生まれる。TSMCには現在約6万5千人の社員が在籍しており、そのうち5万人以上がエンジニアである。そして、その9割が修士号や博士号を持つ高度人材だ。彼らこそがTSMCの中核であり、台湾半導体産業の「シリコン・シールド」を支える要であり、今後TSMCの米国工場が「不可能な任務」に挑む際の主力となるだろう。
エンジニア主導の経営文化こそ、TSMCの成功要因
TSMCの海外人材配置については、台湾国内で賛否両論がある。半導体人材の流出を懸念する声もあれば、海外展開に伴う自然な人材再配置として過度に心配する必要はないとする意見もある。しかし、どの立場であっても共通しているのは、「エンジニアこそがTSMC、さらには台湾のハイテク産業にとって最も重要な資産である」という認識である。
昔、TSMCの元人事担当副総経理であった張秉衡がこう語っていたのを覚えている。「ミクロに見れば、TSMCの各幹部のスタイルは大きく異なる。しかしマクロに見れば、TSMCそのものが張忠謀の姿に見える。TSMCという言葉を聞けば、人々は自然と張忠謀を思い浮かべる。社員一人ひとりに、張忠謀の影が宿っているのだ。それこそが企業文化が最も深く浸透している証拠である。」
私はずっとこう思っている。TSMCの成功は、もちろん張忠謀の卓越したリーダーシップと経営手腕によるところが大きい。しかし、日々の運営を実際に支えているのは、王英郎や廖永豪のような優秀なエンジニアたち、そして彼らが率いる強力なチームの存在である。
TSMCは一貫して「エンジニア主導の経営文化」を掲げており、社内でもエンジニアの人数が最も多い。多くの企業では巨額の利害が絡む設備調達の決定も、TSMCでは「新装置選定委員会(New Tool Selection Committee, NTSC)」によって判断される。この委員会はマネージャー職以上の幹部で構成されており、評価資料や判断基準は各工場の技術エンジニアによって提供される。
半導体業界を取材する中で、ある企業では設備調達を上層部が一手に決めており、実際に機器を日常的に扱う技術エンジニアからは「適切な設備やブランドが導入されていない」と不満の声が上がっていた。また、なかには幹部がリベートを受け取ったり、私的に利益を得ていたという疑惑もあった。
しかし、TSMCでは設備の購入判断はビジネス部門や購買部門の幹部ではなく、技術エンジニアによって行われている。こうした体制を築くには、長年にわたる知識の蓄積と体系化が必要となる。設備に関するあらゆる情報を記録し、最適な機器・材料・プロセスを共有可能なノウハウとして整備し、それを新設工場に迅速に移転する。この仕組みにより、顧客はどのTSMC工場に発注しても同じ高品質を期待できる。
こうして、世界最強とも称されるファウンドリーの知識は、すべてTSMCの技術委員会のデータベースに蓄積されている。それにより、設備調達も明確な基準のもとで効率的に進められる。すべての設備に関する情報は標準作業手順書(SOP)として整備されており、業界では「TSMCの設備調達はエンジニアが決めるものだ」という言葉が語り継がれている。
エンジニアが最も重要とされるのは、あらゆる判断が専門的な知見に基づいてなされるからだ。そして、それこそがエンジニアが日々取り組んでいる仕事である。しかし、重要な存在であるがゆえに、エンジニアが背負うプレッシャーも極めて大きい。TSMCのエンジニアにとって、毎日が挑戦の連続であり、それが彼らの日常なのだ。
たとえば、TSMCでは顧客から注文を受けた際、同一の注文を三つの異なるファブに分散して生産を行うことがある。これにより、社内での成績比較と競争が生まれる。この方式には、どの工場が最も優れた成果を出しているかが明確になるという利点があり、遅れている工場には刺激となる。また、顧客にとっても、1〜2の工場でトラブルが発生しても納品が滞るリスクを最小限に抑えられる。
ある社員はこう語る。「TSMCの社員一人ひとりは、まるで機械の中の小さなネジのような存在だ。機械が動き出せば、どれか一つでも緩んでいれば、他のネジがその分を補おうと動き出す。そして、自分もまた周囲の進捗に追いつこうとしなければならない。プロジェクトは決して一人では完結しない。他の人に迷惑をかけないためにも、早く環境に馴染み、チームの足を引っ張らないよう自分を律していくのだ。」
だからこそ、TSMCの社員一人ひとりが責任感を持てば持つほど、その責任はプレッシャーとしてのしかかってくる。こうした社内競争を促すマネジメントスタイルのもとでは、各ファブの工場長やマネージャーたちは常に張り詰めた状態にあり、その背負うプレッシャーは「山のように重い」とさえ言われる。
エンジニアによる企業運営という文化は、社内競争を促すだけでなく、エンジニアがマネジメント層へと昇進できる環境も整えている。そして、このような企業文化が確立されると、社員はその文化を誇りに思い、自ら積極的に実践するようになる。こうして企業の正の循環が生まれるのだ。企業文化の健全さは、企業の成否を左右する要素であり、この言葉を他社では疑ってかかる人もいるかもしれない。しかし、TSMCにおいては、それがまさに経営と文化の中核をなす、代えがたい存在である。
この言葉に半信半疑な人も多いかもしれない。しかし、TSMCにおいては、企業文化こそが経営の中核であり、決して代替の利かない要素なのである。



