コンピューターと半導体、二つの産業にまたがって:施振栄氏はエイサーを企業ファミリーへと育て、台湾で最も多くの優れた人材を輩出した

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著者:林宏文
コンピューターと半導体、二つの産業にまたがって:施振栄氏はエイサーを企業ファミリーへと育て、台湾で最も多くの優れた人材を輩出した

1976年に100万台湾ドルで創業したエイサー(宏碁)は、緯創(ウィストロン)、緯穎(ウィウィン)、佳世達(Qisda)、友達光電(AUO)を生み出し、企業ファミリーには40社以上の上場・店頭公開企業がある。エイサーはテキサス・インスツルメンツと合弁で徳碁半導体を設立してDRAMを生産し、創業者の施振栄(スタン・シー)氏はTSMCの独立取締役を21年間務めた。三度の危機と三度の「再造」を経てきたエイサーの創業者は、TSMCと台湾の製造業の価値をどう見ているのか。

1976年に設立されたエイサー(acer)は、台湾で最も歴史が長く、最もよく知られたコンピューターブランドである。緯創、緯穎、佳世達、友達光電など台湾の主要な電子メーカーを生み出し、枝を広げて台湾で最も影響力のある電子企業ファミリーとなった。

半導体産業では、エイサーは早くからシリコンバレーのIC設計会社である国善電子と台湾の揚智科技(ALi)に投資したほか、1989年にはテキサス・インスツルメンツ(TI)と合弁で徳碁半導体(TI-Acer)を設立し、DRAMを生産した。1999年に徳碁はTSMCに合併され、エイサー創業者の施振栄氏はTSMCの独立取締役を21年にわたって務めた。

施振栄氏は、台湾のコンピューター産業と情報通信産業の開拓者であるだけではない。台湾をいち早くマイクロプロセッサー革命の波に乗せ、台湾企業が自ら国際ブランドを築く先例を開き、さらにスマイルカーブ、王道の精神、有形・無形の価値といった、大きな影響を与えた産業思想を打ち出した。

エイサー創業50周年の記念式典で、施振栄氏は、エイサーは「最も多く稼いだ企業ではないが、最大の貢献は台湾のために人材を育てたことだ」と語った。50年間でエイサーは数え切れないほどの人材を育て、若者に自信と希望を与え、産業が成長を続け、絶えず次の世代へと引き継がれていくことを可能にした。それこそが最も価値のある部分である。

2026年10月10日(台湾の国慶節にあたる「双十節」)、私は施振栄氏と史欽泰(Chintay Shih)氏という二人の先達による「双十フォーラム」の司会を務め、フォーラムの後、施振栄氏に改めてじっくりとインタビューを行った。台湾のコンピューター産業と半導体産業がなぜこれほど成功したのかを知りたい海外の方々に、より多くの一次資料を届けたいと考え、その内容をまとめた。以下はインタビューの要旨である。

1976年に100万台湾ドルで創業、エイサーはIBMに先駆けて32ビットのパソコンを発売した

Q:今年エイサーは創業50周年を迎え、9月にはミュージカル『微笑半世紀』が初演されました。1976年にあなたと4人の仲間がエイサーを創業した過程を描いた作品で、とても見応えがあり、ネットでも見ることができます。創業当時の考えと、台湾が自ら国際ブランドを築くうえでの挑戦についてお聞かせください。

A:1976年、私と妻、そしてほかの5人の仲間で、100万台湾ドルを元手に創業しました。目標は、マイクロプロセッサーがもたらす第二次産業革命の波をつかむことでした。当時の考えはとても単純で、もしやらなければ「歴史に対する罪人になる」というものでした。

そのため、エイサーは初期のころ自らを「マイクロプロセッサーの園丁」と称し、国内でマイクロプロセッサーの普及に努めました。その後、学習用コンピューター「小教授(マイクロプロフェッサー)」シリーズを発売し、さらにIBMに先駆けて32ビットの386パソコンを発売して、台湾が国際コンピューター産業の中で自らの名前を持てるようにしました。

エイサーが台湾企業による国際ブランド構築の先例を開いたのは、もともと私が早い時期に栄泰電子(Qualitron)で台湾初の電子計算機(calculator)をつくり、その後エイサーがパソコン(PC)を開発したことに始まります。当時はブランドと製造の両方を手がけており、受託製造の機会が出てきたのはその後でした。台湾の電子産業は全体として受託製造に向かいましたが、エイサーは自社ブランドの経営にこだわり、最終的に受託製造部門を分離しました。Acerは、世界市場に最も早く進出した台湾のテクノロジーブランドの一つとなりました。

その後、私たちはブランドと受託製造を切り離し、二つのモデルが互いにぶつからないようにして、明基(BenQ、現在の佳世達)と緯創を分離しました。このやり方が、エイサー、友達光電、佳世達、緯創の四大グループからなる今日の企業ファミリーを生み、傘下には40社以上の上場・店頭公開企業があります。

劉英武からランチまで、エイサーは50年で三度の危機と三度の「再造」を経験した

Q:エイサーは50年間で多くの試練に直面し、三度の「再造」(企業の立て直し)を行ってきました。劉英武(レナード・リウ)氏とジャンフランコ・ランチ氏を起用した後、会社がどのような危機に陥ったのか、そしてどのようにその試練を乗り越えたのかをお聞かせください。

A:エイサーは50年間で三度の大きな危機を経験し、三度の「再造」を行いました。そのうち、人の起用で私が犯した誤りは、主に一度目(劉英武氏)と三度目(ランチ氏)です。

一度目の危機は1989年から1992年にかけてでした。当時エイサーは急速な国際化を目指し、IBMの副社長だった劉英武氏を社長に迎え、大企業の管理制度を導入すると同時に、買収によって事業を拡大しました。たとえば米国のアルトス(Altos)を買収しました。その結果、1991年には創業以来最大となる6億700万台湾ドルの赤字を出し、欧米事業の実際の損失は帳簿上の数字よりもさらに深刻でした。劉英武氏はそのため1992年4月に辞任しました。

当時のエイサーの反省は、買収によって市場や販売チャネルはすぐに手に入るが、能力や企業文化は取引だけでは得られない、ということでした。そこで、1992年に第一次の「再造」に着手し、スマイルカーブを打ち出して、価値がどこにあるのかを考え直し、経営資源を研究開発とブランドという両端に移しました。

また、私たちはファストフード店モデルを推進しました。これは、台湾でマザーボードなどの主要部品を生産して「セントラルキッチン」の役割を担い、最終組み立ては各地の市場(マクドナルドの店舗のようなもの)に移してその場で仕上げるというもので、輸送、在庫、値崩れのリスクも下げることができました。

グローバルブランドと地域密着を組み合わせる戦略については、海外子会社の株式の過半数を現地に持ってもらい、現地の人材を起用することで、エイサーに不足していた国際経営の経験を補いました。

こうした改革の成果は次第に表れました。1993年下半期から、製造部門の管理費用はもとの6分の1に下がり、在庫回転日数は100日から50日に短縮されました。1995年にエイサーは世界第7位のPCブランドとなり、米国事業も黒字に転じました。

二度目の危機は2000年前後に起きました。主な原因は、ブランド事業と受託製造の衝突です。エイサーは自社ブランドと受託製造を同時に手がけていたため、ブランドを持つ顧客は、エイサーが自分たちのサプライヤーであると同時に競合相手でもあることを懸念し、受託製造の受注が影響を受けました。

そこで、私たちは第二次の「再造」に着手し、グループを分割しました。エイサーはブランドに専念し、受託製造は緯創として独立させ、ブランドと製造の周辺事業は明基(現在の佳世達)としました。この分割が後に一つの「企業ファミリー」を育て、現在、エイサー系グループには40社以上の上場・店頭公開企業があります。

三度目の危機は2008〜2013年でした。当時、イタリア人の社長だったランチ氏は、販売チャネルに製品を押し込む手法でエイサーの欧州市場を切り開き、世界第2位のPCブランドの規模にまで押し上げました。

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